コヒーレント思考
コヒーレント思考とデコヒーレント思考、これ私が造った造語です。
この違いをきちんと押さえる事はあなたを自由に解き放す事に非常に役に立ちます。
コヒーレント思考は、決めないで(型に嵌めないで)考える思考方法です。
それに対して、他方デコヒーレント思考は、いちいちはっきりさせながら考える思考方法です。
例えば、あなたが男性で本命を決めずに複数の女性と付き合っていたとしましょう。
これがコヒーレントな状態です。
親に「いい加減結婚しなさい」と、強要されて1人に決めたとしましょう。
ホントに決めたとしたら、もう他の女性の可能性はなくなります。
複数の可能性から(これまで付き合っていた女性とは別の女性かも知れませんが)1つの現実だけが実現された事になります。
デコヒーレンスが起きた、と表現します。
結婚しても、まだ別の女性との関係を続けるならデコヒーレントしていないのかもしれません。
コヒーレントとデコヒーレント、この言葉遣いは私は
ペンローズから教わった。
ホントは量子力学の用語ですが、これを思考の世界に持ち込むとすこぶる具合が宜しい。
「今度の金曜日、合コンあるけど出る?」と誘われたとしよう。
今度の金曜日かあ、予定は空いているなあ。
でもオイラお酒好きじゃないし。
それに可愛い娘は来るんだろうか?
でもちょっと疲れ気味だな。
こっちの面子も知りたいなあ、もし○○も来るなら嫌だな。
などと考えたしよう。
この間、出るとも出ないとも結論は出ていない。
これ典型的なコヒーレント思考。
この間、まった黙って反応しないと優柔不断といか、そうとう変な奴だと思われます。
そのコヒーレントな状態を壊さず、態度表明するなら「今は、色々な思いが駆け巡って出席するかしないか、態度を1つに決められません」とでも表明するんだろうか? それも相当変。
ところが典型的なデコヒーレント思考だとすると、
「今度の金曜日、合コンあるけど出る?」と誘われたとしよう。
「出るけど、可愛い子くるよね?」 と、瞬間的に答え/反応がくる。
これが典型的なデコヒーレント思考。
うだうだ考える前に答えがでている。
話をしているうちに、大した娘が来ないとわかると、一旦出ると言ったものの、
「あ、ダメダメ、予定があった」とか後から打ち消す場合もある。
最初の「答え」や反応は大した意味を持たない。
日本人は、コヒーレント思考
日本人は、コヒーレント思考が得意です。放っておくと、これ、やります。
他方、白人は基本はデコヒーレント思考です。
我々農耕民族は、とりたてて直ぐに決めなくてはならないことはそうそうありませんが、狩猟民族は、敵と遭遇したら逃げるか攻めるか、瞬時に決めないと生きて行けません。
この長い生活習慣の違いが、脳の思考方法を変えてしまったものと思われます。一度、逃げると決めて、逃げながら、よく相手を見たらは弱そう。それに、考えてみたら、
今日の夕飯がないんだということを思い出して、闘いに切り変える場合もあるでしょう。
状況に応じて、あとで変更しても構いませんが、兎に角一度は決める。
決めるというより、意識した時は既に決まっているのですが(この感覚は日本人には掴みにくい)、これをデコヒーレント思考と呼びます。
他方で、農耕民族は退屈な農作業をしている間、もしくは冬の農閑期は、脳は比較的暇で
、ぼーっと考えていることが出来ます。
その場で瞬間に決める必要はそうそうない。
思いが浮かんでは消え、刹那滅、まあ瞑想のようなものです。
私はこれをコヒーレント思考と呼びます。
思考は言葉になる
思考は言語に現れます。
日本語と韓国語は動詞が最後に位置します。
主語がないのは屡ですが、酷いと動詞もなくなります。
古代のイギリス語も後ろらしい。
大陸から侵略者がくるまでは、海を隔てた島国で比較的農耕な生活を過ごしていたんだと想像されます。
ドイツ語は、最後に nicht と前言を打ち消しできますが、その他の西洋の言語は圧倒的に動詞は前に来ます。
その瞬間、恣意的に態度を決めるというよりは、本能的に決まっちゃているんです。
この感覚は典型的な日本人には掴みづらい。
コヒーレント思考では多くの情緒というか、可能性をを残したまま思考できます。
ところが、デコヒーレント思考ではそうは行きません。
「人は死ぬ」「ソクラテスは人である」よって「ソクラテスは死ぬ」
これは、典型的なデコヒーレント思考です。
実は「人は死ぬ」と言った瞬間に「人」から多くの情緒、可能性が失われてしまいます。
つまり、これが正しいのは死ぬ限りの人であって、「人」には多くの意味と可能性があり
ますが、この全てにおける人という意味を指してこの文脈が成り立っている訳ではありま
せん。
「ソクラテスは人である」これも同様です。この場合、どういう意味で「人」だと
言いいたいのか、その意図はさておき、ソクラテスも人で在る限りの人であること
には間違いない。
そうして、幾つもある可能性の中から、かなり強引に、よってソクラテスは死ぬという
結論に繋げてます。
これに、コヒーレント思考を当てはめてみる。
例えば、「人は死ぬ」という人を、つまり死ぬ限りの人を思い浮かべる。
それ以上、特に何かを決める必要はないが、ピントというか心持ちというか、
はその「死ぬ限りの人」に焦わせる。正確には焦わそうと努力する(その心持を維持する)。
合わせた儘、今度は他方で「ソクラテスは人である」ところの人にピントを合わせる。
そうして、良くピントが焦った時点で、この2つの人が同じかどうか比べます。
すると色々分かってきます。
もう既に上で種明かししてますが、
「人は死ぬ」には違いないが、死ぬのは人じゃなくても死にます。生命は比較的短時間
で死にます。無機物であっても、形在るものは全て滅びます。無常。
ただ単にそう言いたいのなら、敢えて、言うほどの事でもない。当たり前の事。
普通はそうじゃなくて、人生は無限に続かないから、有意義な時間の使い方をしなさい、
というような前向きな文脈で使う。もしくは、傲った人がいたとしても、所詮人間、お前
だって、やがては皆と同じようにお前だって死ぬ運命にあるという呪いの言葉の意味かも
知れない。
他方、「ソクラテスは人である」というのも間違いないにせよ、その言い方には幾つか
の意味が考えられます。
単に人間であることを言ってるなら、同様に敢えてソクラテスを挙げるまでもない。
そうじゃなくて、我々と同じ人で在りながら、大した学問も受けていないのに、あの精神の高みまで行けた!という尊敬の念を表しているのかも知れませんし、ソクラテスも所詮は人間だよと、逆の意味かも知れません。
この2つから、ソクラテスは死ぬ、に繋げたところを見ると、
どうやら後者、ソクラテスに悪意を持っていると判断した方が良さそうだ。
余談だが、古代ギリシャ哲学を私は凄く評価していた。
冷静に考えると、裕福な家の子はエジプトに留学していたんですね。
そこで神官から教わってきた某か偉そうなことを吹聴する。
それに、ソクラテスが、それはどういう意味か?と尋ねた訳だ。
ソクラテスは偉いが、元ネタはエジプトにあったというのは後から知った。
コヒーレント思考のコツ
別の例を出す。
他人の話を聞いていて、コヒーレント思考なら「あれ、なにかがおかしいぞ!」と思う
瞬間がある。私もそう、あなたも典型的な日本人ならそうだと思う。
おかしいぞと思ったとしても、その理由が直ぐに分かる場合ばかりとは限らない。
そこで、おかしいぞと思った、その「心持ち」を維持したまま、何がおかしいと感じ
させるのかを考えてみる。そうすると、色々な事が明らかになる。
この時、最初の「おかしいぞ」と感じた、その心持ち、初心を維持することが大切です。
なにがおかしいのか、具体的に、無理に決めながら考えてはならない。
そうするとデコヒーレント思考になってしまい、肝心なおかしいぞと感じた問題点は胡散
無産してしまう可能性があります。あ、気のせいだったと。
夢から覚めたら、なんの夢をみていたか、つい一瞬前まで見てた夢の内容が分からなくな
る場合がありますが、それと同じです。
そう、夢はコヒーレント思考ですね。
他人の話をきいている内に瞬時に「○○が間違っている!」と具体的に問題点が沸き上が
るなら、そうであれば、そこではデコヒーレント思考が行われてます。
よく考えてみたら、自分の方が間違っている場合もありますが、最初にまず、答え、というか態度表明ありきです。
日本人はコヒーレント思考が得意なのに対して、白人は、デコヒーレント思考が得意です。
繰り返しになりますが、発想方法が、そもそも違う。
デコヒーレント思考同士なら、議論にもなるが、コヒーレント思考者と話すと所謂議論
にはならない。上手くゆけば、有意義な対談になりますが、そうじゃないとただの
おしゃべりと変わらないかも知れません。
もう少し高尚にいうと「禅問答」みたいな。
議論できない日本人が劣っている訳じゃない。
そもそも議論という方法が、デコヒーレント思考なんだ。
他人から説明を受けて、理解する。もしくは納得する。説得される。これ、デコヒーレントな場合が多い。
コヒーレント思考の場合は、本当に分かった!とか、悟るとか表現した方が適切。
以上の説明で十分かも知れませんが、幾つか念押ししておきましょう。
契約書
契約書をみると違いが良く分かる。
デコヒーレントスタイルなら、欧米の契約書みたいに事細かく具体的に記述するので、
簡単な契約でも、信じられない厚さになる。
コヒーレントスタイルなら「問題が発生した場合には、双方が誠意をもって話し合う」と
最後に1文追加して終わる。そこに関しては具体的なことは何も書く必要はない。
そこで、私はゲーデルを持ち出す。
チューリングでもチャイティンでも良いのですが、高々有限個の文章で細かく規定しても、かならず、漏れは発生します。
私は、日本人だし、コヒーレントなスタイルの方が余程円滑な社会生活には優れていると
感じる。決めようもないものを下手に決めるから、あとで訴訟合戦になる。
日本人には合わない。読む気もしない。
両方の思考
一人の人はどちらか一方の思考方法しか使えないとうことは在りません。
子供は、デコヒーレント思考とコヒーレント思考が端的に混在してます。
本能がどこまであるのか分かりませんが、産まれたばかり(子宮内かも知れませんが) は、コヒーレントな状態が多いと思います。
子供のころ、色々教わりながら成長している間はデコヒーレント思考が多い。
ところが、思春期では、問題意識が深まれば(具体的に問題意識があればデコヒーレントなので、ここでは、なにかモヤモヤとした問題意識)、コヒーレント思考の割合が増える場合もあります。
自分の生き方が決まって、実際にそう生きられるようになると、デコヒーレントな部分が
増えます。
ドイツ人は結構、コヒーレント思考がしている人が多いのに対して、アメリカ人はデコヒーレント思考が多いように感じる。
思いは顔に出る
思いは顔に出ます。
コヒーレントしている奴、何を考えているか表情からは良く分かりません。
以前は「面とペルソナ」(和辻哲郎) という大変優れた文章が国語の教科書に載ってましたが、能の面は、コヒーレントな典型です。
デコヒーレント思考の場合は、一目瞭然です。
嬉しいと思えば、嬉しい顔をしますし、悲しい時は悲しい顔をする。
その表情に迷いはない。
瞑想
瞑想は殆どコヒーレント思考。
これに対して、典型的な弁証法、たとえばヘーゲルのそれは、デコヒーレント思考です。
なので、易々と唯物論者に持って行かれてしまう。
ところが、同じ弁証法でもシェリングの弁証法はコヒーレント思考です。
多くの可能性があって、そこから1つの現実が産まれる。彼はポテンツと呼びました。
プラトン、ソクラテスはコヒーレント思考ですが、アリストテレスは悲しいかなデコヒー
レントしちゃってます。
一般に、デコヒーレントな説明の方が分かりやすいと感じる。
でも、それには微妙な情緒は失われてしまっていて、正確にいうと嘘の場合がある。
他人を騙すにはデコヒーレントな説明の方が適っている。
クラッシック
カラヤンの音楽はデコヒーレントな音楽です。
他方、フルトヴェングラーの音楽はコヒーレントな塊です。
ベートーべンもかなりコヒーレント。でありながら、あそこまで形を創り上げたのは
凄いと思う。白人でもデコヒーレント思考しか出来ない訳じゃない。
絵画
絵画でいうと、日本画には遠近法は重要ではありません。
狩猟民族の彼らは、空間的に自分の位置、敵の位置を把握する必要がありますから、必然的に3次元内で捉えている。
なので、絵画も遠近法が用いられますが、日本人は「それ」について考えるとき、他はどうでもよくなる。なので、2次元的な絵になる場合が多い。
コンピュータ
デコヒーレント思考はノイマン型のコンピュータの動作に似ている。
他方で、コヒーレント思考は「量子コンピュータ」の動作に似てます。
コヒーレント思考では、答えは、推論の結果導かれるものじゃなくて、突然現れます。
何故、そいう答えに至ったのか、説明しようとうするなら出来るかも知れませんが、
敢えて説明するのは超面倒なくらいの過程を一気にすっ飛ばして、答えを得ることが
出来る場合があります。
21世紀
別に、デコヒーレント思考もコヒーレント思考もそれだけで即どちらが偉いとうことはない。
要は何を考えて、最終的にどういう生き様をするか、だと思う。
しかし、猿が人間の細かい配慮、心のひだまで理解できないように、デコヒーレント思考
じゃ描ききれないコヒーレントな世界がある。他方、コヒーレント思考で、やれば勿論
デコヒーレント思考は理解もでる。
と表現すると、コヒーレント思考が優れているようだが、コヒーレント思考と格好良く
呼んで見たところで、それ自体は優柔不断、ボーッとしている状態と大差なく偉くもなんともない。
しかし、これだけ複雑になって現代、
20世紀がデコヒーレント思考でもなんとかなったのに対して、21世紀はそれじゃあ
やりきれんのじゃないかと思うことは多々ある。
21世紀は、コヒーレント思考の世紀になる。たぶん。
そもそも優れているという言葉は、それだけでは意味を成さない。
○○をするには、優れている、という風に尺度に当たるものが必要。
初心
コヒーレント思考では、どこにピントを合わそうとするかが肝心。
「初心」という言葉がある。
その心持を維持しながら、日々常に精進する。典型的な我々日本人の生き方です。
世間の雑踏に紛れて、つい失われそうになる「初心」。この初心を取り戻す作業を「祈り」と呼ぶ。
この言葉遣いを私はシェリングから教わった。
何度も言うがコヒーレント思考ができるのは日本人だけじゃない。
でも、普段は平気に悪事に手を染めながら、日曜日に教会にいって祈りをささげるなんて、
ちゃらちゃら可笑しい。こんなことができりうのは、破壊的なデコヒーレントが起きて、
信仰の世界と現実の世界が別物になっている証拠だ。
俳句
コヒーレント思考をそのまま表現できる言語がない。
ただ、日本語は他の言語と比べて、コヒーレントな思考を表現するには向いている。
例えば、俳句。
古池や、蛙飛び込む、水の音
それは、心にあるイメージを生じさせる。
古池や、と聞いただけで、幾つもの可能性の中から思いが持ち上がろうとする。
蛙飛び込む、と続くと、一層その思いがクリアになる。
水の音で、さらにクリアとなるが、なにか和音のようなクリアさだ。
ピントがあって光景が目に浮かんでくるが、決して即物的な光景ではない。
主語も省略されてますが、そこには作者の具体的態度表明は一切ない。
そこでデコヒーレントさせてしまうと、とたんに余韻 がなくなって即物化してしまう。
デコヒーレント
他方で、ある人がコヒーレント思考で非常に高いレベルの知識を得たとしよう。
でもそれが、コヒーレントであればあるだけ、他人がそれを理解するのは難しくなる。
具体的に説明せよと言われて屡持ち出されるのが喩え話だ。
それで分かる人も居るし、分からない人も多い。それが、受け継がれることも、また難しくなる。
デコヒーレントを起こさせて「線を引いてしまえば」確かに、失われる情報はあるかも
しれない。それでも、具体的な形にすることが、社会においては非常に利益になる場合
がある。あえて、デコヒーレントさせることの大切さがここにある。
道路も日本では車は左側を通行するが、「決める」ことで得られる利益は大きい。
科学技術しかり、民主主義しかり、人類に多大な利益をもたらした。
形になったものは、他人でも理解し易い。ノウハウは広められ、受け継がれる。
後人は先人の苦労を忘れ、そこから新しい時代をスタートすることが可能にもなる。
交通ルールなら決めれば済むかも知れないが、扱う問題が難しいものなら、それを正確に
やろうとすると、新しい手法や概念が必要になる。
科学技術上のそれは、実験することでその有効性を調べることが出来るので絶えず検証
され修正されてきた。その結果、著しい発展を行ってきた。これまでは。
物理学の一部では、現代は、最早扱うエネルギーレベルが高すぎて、検証できないからだ。
そういうのを除くと、一般に自然は我々が願うようには振舞ってくれないので、修正も
効き易いが、そうでないものは、修正がしづらい。
それどころか、形になったものは一人歩きし、そもそもなぜ故えそうであらねばならな
かったのかを忘れ、違うものになってしまう危険性もある。
哲学においてさえそうだ。
プラトン哲学は、頭の良いアリストテレスによって台無しにされた。
弁証法さえ、相容れない連中の道具に成り下がってしまった。
何でも説明でき、どんな結論でも導きだせる。
民主主義も一部の権力者の道具になっている感がある。
そもそもの生い立ちとは全く違うものになってもそれが生き残るのは、それをならしめている理由がある。
あまつさえ、明らかに間違っているものさえ生き残るのは、それをそう有らしめている
システムが裏に存在するからだ。
この辺りの仕組みは、気が向いたらオートポイエーシスで述べようと思うが、
要は、そのようにデコヒーレンスさせるのは正しいかどうかよりも、某かそうであると都合が良い側面がある。
実数の数直線を思い浮かべる。それが連続なのを悟ったとしても、ただそれだけだとそこ
からは何も産まれない。例えば、その数直線を切断したとしてみよう。
切断したまさにその点は、どちらか一方にしか含まれない、とデコヒーレントさせてみる。
そうすると、そこから多くの頃が導き出せるようになる。
ここでは、デコヒーレントしてしまったものは、それがいくら有効でも元の情報は失われ
てしまっている事を強調しておこう。
天才
多分、私が思うに、ある真理とでも呼べるような高いレベルの知識を得た人は、その知識
を得る過程は、東洋人であれ、西洋人であれ、だれでもコヒーレント思考がメインだと思う。
なぜなら、一々具体的に考えていたのでは、人間の一生は余りに短すぎる。
東洋人は獲た真理をコヒーレントなままにしておいたのに対して、西洋人はなんとか形に
しようと勤めた人が多い。
真理を形にし上手く表現することを「芸術」と呼ぶ。
技巧がいかに優れようとも、そこに真理がなければ芸術とは呼ばない。
ベートーベンを聴いて見よ。心に残る印象より、実際の音楽は遥かに複雑。
彼が、彼の心の中の思いを、何度も何度も祈りながら、あの形にまで高めて言ったことが
良くわかる。もっとも、フルトヴェングラーで聴かないと駄目だ。他の指揮者じゃ。
最近は物理学者も良く美しいという言葉を使う。
なるほど、相対論は私も美しいと思う。
されど、スーパー紐理論が美しいかどうかは、私には分からない。
コヒーレント思考
最後にもう一度。
我が家の捨て猫だった猫も、最近は随分と表情が顔にでるようになった。
彼女の余剰ニューロはほんの少しだと思う。
野良猫時代は、毎日を生き抜くことで目一杯。
余裕は全くなかったハズだ。
人類は農耕を覚え、余裕を獲た。それはそれまでの生活を一変させた。
そうして、膨大なニューロ中に、ある思いを漂わせ、その響きを観察しながら思考すると
いう思考方法を身につけた。
余韻を残しつつ思考する事ができるようになる。
それがコヒーレント思考。
そうして、21世紀は、コヒーレント思考の世紀になる。
コヒーレント思考のコツ、その2
1.何かを言い切ってみる(擬似的にデコヒーレントさせる)。
2.「でも。。。」とつなげて、余韻を意識的に引き出してみる。
その滲み出た余韻に、実は、本質的な問題が隠れている場合もある。
要は「なんか変だ」と感じたその何かに焦点を当ててみることだ。
知らない間にコヒーレント思考
・一人で軽作業をする。
農作業とか、私なら薪割りとか、ジョギングでも構いません。
刹那滅といいますが、とりとめのない思いが1つ浮かび、また1つ浮かぶ。
それは典型的なコヒーレント思考です。
・ソロで山登りをする。
私はコーリン・フレッチャーからそれを教わりました。
・喫煙する
これやると、昨今は非人間扱いされますが、確かに効く。
凝り固まった意識が解れて、もう一度考えてみようと思う。
それ、コヒーレント思考。
いずれも一人で居ることが大切かも。
他人がいると、他人の波長を感じてしまい、その同調圧で自分はホントはそうしたくなくても、デコヒーレントする可能性があります。とくにA型の人は要注意。
以下、面倒になったので Mr.Flat の人格論に統合することにしました。
そちらをどうぞ。
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